2014-04-09 第186回国会 参議院 国民生活のためのデフレ脱却及び財政再建に関する調査会 第3号
これは、戦前の大恐慌のときに大変な農業恐慌が起こった。これを解決するために当時の農林省がつくったものが産業組合で、それが戦後、農協に転換されたということでございます。 それからもう一つは、農地制度です。農地制度というのは、今の農地制度は何かというと、戦後に小作人を解放して、それに所有権を与えた。つまり、耕作者イコール所有者だと。
これは、戦前の大恐慌のときに大変な農業恐慌が起こった。これを解決するために当時の農林省がつくったものが産業組合で、それが戦後、農協に転換されたということでございます。 それからもう一つは、農地制度です。農地制度というのは、今の農地制度は何かというと、戦後に小作人を解放して、それに所有権を与えた。つまり、耕作者イコール所有者だと。
などの、アメリカからの輸入を前提として、選択的拡大的に取り組んでこられた対米従属型農業生産構成に根差すものであり、このような枠組みによって農業生産の場を決定的に狭められた農家は、そこで過剰化した労働力を兼業化に振り向けつつ、兼業可能な稲作を初めとする単作農業に傾斜していき、過剰はいわば必然的に起こる現象であった、日本の輸入依存体制は、戦後アメリカの農業に対応するものであり、アメリカを中心とする世界的農業恐慌
○梶井参考人 高橋是清の話というのは、戦前の生糸、昭和の農業恐慌で生糸が輸出できなくて、生糸滞貨で横浜で生糸の価格が暴落しました。そのときに、当時の農林省は、生糸の買い上げ会社をつくって、市場から一定程度買い上げて糸価の安定をやろうということをやったわけですね。
今日ほど、日本農業が壊滅寸前になっておる、いわゆる農業の平成恐慌だ、農業恐慌だと私は申し上げても過言でないほど今の農業が本当に大変な状況になっていることを、現場におって、また、そういうJAの立場から見て、実態がそうであるということをまずお話し申し上げておきたいと思います。 このことは、二〇〇五年、去年の農林業センサスの数字の中にも、販売農家がどうだとか、どれだけ減ったとか言われております。
この人がちょうど昭和三年の金融恐慌、それから昭和五年に農業恐慌、そのときに農林省の農務局長、当時次官が石黒忠篤さん。何をやったかというと、当時、農村恐慌ですからね、負債整理法をつくりました。それから土地改良につきましては、耕地整理に関する法律をつくった。団体については農業団体法。当時の米については、これは食糧に関する穀物の法律ですね。
昭和の初めの経済恐慌なり農業恐慌の中で、それを産業組合が一手に引き受けてその厳しい事態を乗り越えてきたというような協同組合の歴史もあります。
このパリティという概念が導入されましたのは、皆さんも御承知のことと存じますが、一九三〇年代、大変な農業恐慌が参りまして、特にアメリカにおきましてルーズベルト大統領のもとでニューディール政策がとられるという過程の中で、その一環としまして一九三三年に農業調整法、アグリカルチャー・アジャストメント・アクトというんですが、一九三三年、その農業調整法がつくられ、さらにそれが三七年、に改正された上で今日まで恒久法
「そしてそれが昭和初期の農業恐慌その他を端緒として、軍部の革新運動が官僚と結合し、五・一五事件、二・二六事件になり、そして明治維新以来たくわえられた大きな日本民族のエネルギー、アジアの火薬庫が大東亜戦争となって暴発したのであります。」 先ほど私は、昭和七年八月三十日の本院の予算委員会における議事録をお手元に配りました。
昭和初期における東北地方は、天候不順による未曾有の凶作と農業恐慌にあえいでおりました。みずから米をつくる農民に食べる米がなく、娘の身売りが相次ぎ、学童の大半がアザミの葉などを食べて露命をつなぐという状態でありました。この窮状に慟哭された先生は、同志と相はかって山形県置賜平野に置賜農民同盟を結成し、文字どおり農民と起臥をともにして、大衆の生活を守るため心血を注がれたのであります。
しかし、余ったものは、あまり供給が超過しているものはある程度需要に合わせていかなければ、これは米の管理でもしていなければ、自由経済ならば豊作貧乏になって、たくさんとってもふところに入る金はただみたいになって、ちょうど昭和初年の農業恐慌、その当時私も百姓をしておったのですが、農業恐慌で米の値段は一俵八円、小麦一俵二円、麦一俵一円、こういう昭和初年の恐慌時代みたいに、需給のバランスがとれないで自由になっておったとするならば
とても農家の生活といいますか、米生産農家なんかがやっていけないことは、再々申し上げているように、昭和三年ごろから昭和十年ごろまでの農業恐慌、ああいうようなことにおちいったのでは困る。そういう意味において、やはり農業も自給自足農業じゃございませんから、結局、農業の生産においても価格政策の中に入ってしまう。
大体生産調整というのは農民がやるべきなんで、自分が生産するものが余ってしまって、そしていまは食管制度があるからそのままで価格維持もされているのですが、この前も申し上げたように、食管制度でもなければ、これは昭和初年のような農業恐慌でがた落ちになってしまう。ですから、生産が、供給が消費というか需要よりも過剰であるというのなら、これは自分自身、農民自身が生産調整をするという立場だと思うのです。
昭和初年の農業恐慌、あれなどは米が一俵八円ぐらいでもって、それで農村が非常に困った。ですから、自由放任しておけば、豊作のような場合なんかは、米の値段はがた落ちになって、農民はつぶれてしまう。でありますので、食管制度によって、これを農業の価格支持の一つの大きな柱として支出しておるわけでございまするから、大きい目で見れば、やはり農業政策の一つの金でございます。
(拍手) 私が遠藤君を知るようになったのは、戦前わが国の農村経済、農民生活が農業恐慌によって破局的な打撃をこうむり、いまだ疲弊と窮乏にあえぐ時代に、私が企画院において農業問題を担当し、そのとき農林省の担当であった君と互いに連携して仕事に取り組んで以来のことであります。
これは農業恐慌時代でございますが、たいへんな冷害であったことがございます。その冷害を避ける予防体制もだんだん整ってきております。しかし今般北海道等におきまして冷害が出ておることは、まことに残念でございます。
かつて農業恐慌の時期において救農土木事業を行なったが、地元農民にその労賃をかせがせる意味で企画されたものであった。それと比べて今日の土地基盤整備事業は、むしろ土建業者本位となっているのではないか、こう私は思うのです。この点が私は問題だと思うのです。
米穀法が大正十年に制定されまして、これが農業恐慌以来、あるいは金融恐慌の波をくぐり抜けながら農民が米の生産に従事してまいった、この米穀法のもとに。その当時は商人に売り渡しておった。
だから、キャベツが非常にことしは値がいいけれども、みんなまたキャベツをつくるということでは、これは結局、多くつくれば非常に暴落するということで、こういうことは、私たちが学生の昭和二、三年ごろに、農林省が推奨したことをまじめにやると、たとえば豚を飼えということになると、その翌年豚はうんと余って、暴落する、だから、農林省の言うことと反対のことをやればいいというような、そういう農業恐慌の時代があったことを
しかしながら、こういう借り入れ金の内容を見ますと、主として増大しておるものは農林公庫資金、農業近代化資金等の長期低利のいわゆる前向きの資金でありまして、昭和初年度の農業恐慌時代の資金のように、生活資金としてのようなものとは性質が違っておるように考えられます。
様相はありますが、昭和二、三年、あのころの農業恐慌の時代、あの時代の東北の冷害などと比較しましたならば、農業がどれくらい進んできたか、また進んだ政策を行なってきたか。土地改良なども、冷害を克服する大きな原因でございます。こういう点においても、東北などにおいて相当な土地改良ができておる。
あるいはまた昭和初年度の農業恐慌等におきましても、農村の疲弊といいますか、相当つらい時代がありましたが、農業は滅びなかった。あるいは戦争中に労働力が不足しまして、農業も困ったけれども、農業そのものが決して滅びたということはない。むしろ現在におきまして、農業そのもの全体に明暗二つの道があると思います。暗黒面を相当強調される向きがありますが、明るい面も相当出てきておる。